強がり女のため息

レオナルド・フジ子

この世界でいちばん生きやすい生き方

何年かぶりに、上野の国立科学博物館に行った。上野には多くの美術館と博物館があるけれど、国立科学博物館は私が特に好きな場所だ。行くたびに新しい気づきがある。今回は、京都大学で医学博士をしている友人に解説してもらいながら展示を見るという、なんとも贅沢な時間を過ごした。

博物館の中では、宇宙の成り立ちから生命のはじまり、進化、そして現在に至るまでのあらゆる物事の壮大なストーリーを垣間見ることができる。子孫を残す手段として、魚のように大量の卵を産んでその中の数匹が残れば良いという道を選んだ生物もいれば、哺乳類のようにごく少数しか産まずその代わりお腹の中で確実に育てるという選択をした生物もいる。外敵から身を守るために速く逃げる能力を身につけた動物もいれば、木の葉と見分けがつかないほどに擬態する生物もいるし、ゾウのように巨大化することを選んだ者もいる。

みんなこの地球で上手に生きていくために、長い時間をかけて適応してきた結果が「今」だ。なのに、なぜ生き物は、みんなこんなに形が違うのだろう。いちばん効率が良い生命とはなんだろう。私は博士に訊いてみた。「僕もちょうど今同じことを考えていたところです」と彼は答えた。それはどんな天才でさえも答えを導き出せない質問だった。

 

大人が子どもと違うのは、自らの行動を制御できることだ。幼い子どものように、腹が立ったら目の前の相手を叩いたり、泣きわめいたりすることはない。一部の大人は子どものまま制御を知らずに生きているが、多くの大人は、腹が立つときも悲しいときも我慢する。その我慢の度合いは人それぞれで、我慢から少しだけ感情を漏らす人もいるし、完璧な笑顔の仮面を被れる人もいる。

この生命が終わる瞬間まで、自分が何者であるかを探す旅をしていると私は思っているけれど、私は少なくとも、多くの人より我慢強い自覚がある。仕事においても大抵の理不尽には耐えられる。それが年収1,000万円という、30代の女性としては高い収入を得られるようになった理由のひとつだと思っている。だから私はそんな自分の性格が嫌いではないが、自分の感情を爆発させることができる人を羨ましく思うこともある。

我慢より自分の感情を優先させる人は周囲にとっては迷惑な存在であるかもしれないが、なんでも我慢して過ごす私よりは、自分にとって生きやすい環境を作ろうと努力しているとも言える。

私の友人には、夫婦別姓の選択ができるよう運動を起こしている女性がいる。結婚も離婚も経験している私は、名字が変わることの煩わしさを痛いほど実感してきたので、夫婦別姓の制度ができることは大いに賛成だ。けれど、彼女のように自ら政府に働きかけよう、社会の仕組みを変えようとまでは思わない。それより自分が我慢するほうが時間もかからず簡単だからだ。我慢するということは、目の前にある問題から逃げることだとも言える。Facebookで彼女の運動について知るたび、自分の我慢強さではなく弱さを自覚する。

私たちは、それぞれが生きやすいと信じた生き方を選択して生きている。この世界の人口は70億人。70億の選択がある。そのどれもが正解でも間違いでもない。

 

小さな昆虫の体も巨大なクジラの体も、ただ水の中を漂っているだけに見えるクラゲも、草花も、この世界で生きやすいようにできている。形はこんなに違っても。人間の個々の生き方の違いなど、この地球と宇宙にとってはほんの些細なことに過ぎない。博物館に展示された壮大な歴史は、私にそう語りかけた。